「メディア」@シアターコクーン

女優大竹しのぶの一人舞台といっても過言でない作品と言えるかもしれない。別にその他の役者の存在感がないというわけではない。大竹女史の存在感が大きすぎるのである。名女優というか怪優というか。冒頭では姿を見せずに声だけの登場であるが、この時点で何か尋常ならぬ力を感じる。声だけでも表現力があり、声だけでも客に対して説得力がある。姿を現してからはその豊かな表情で魅せてくれる。恍惚とした笑顔かと思えば、一瞬にして怒りに煮えたぎった眼差しを見せる。正気と狂気のギリギリの狭間で揺れつつも、燐とした正気でもって狂気を犯す。以前「パンドラの鐘」でもビビッたが、改めてホレた。
ギリシャ悲劇ということで、地名や人名・神々の名前など聞きなれない単語が次から次へと語られる。セリフも次から次へと矢継ぎ早に繰り出されるが、聞き取れないとか理解できないとか頭を傾げるようなストレスは感じない。脚本や演出もいいのだろうが、台詞回しが上手いとか説得力のある演技をするとか役者の力量が大きいのだろうと思った。
舞台も相変わらず派手である。今回もまた水を使っているが、舞台全体が完全に水を張った状態で、蓮の花が咲き誇っている。当然役者は膝辺りまで水に浸かって芝居をする。見た目以上に体力を使いそうである。ラストはクレーンか何かを使用してドラゴンをあしらった車が宙を舞い、そして舞台奥の壁にある搬入口を開け放つ。食い入る様に芝居に集中しているところに、いきなり舞台の奥から現実世界の日常が現れるので結構面食らう。まあ、以前にも同様の演出を見ているので、それほど驚かなかったが。
確か1〜2年前の夏に花園神社で椿組のテント芝居を観た折に、ラストにこういう演出をしていた。今回さほどインパクトが無かったのは2回目だからというだけでなく、外の風景があまり面白くなかったから。東急のトラックやらが見えるだけで、そんなに面白味がなかった。以前の椿組の時は、新宿の喧騒がすぐそこにあった。舞台上の花畑の向こうには行き交う車や人々、信号や横断歩道、異世界の向こうに日常がひしめき合っていた。ただでさえテント芝居ということで、上演中も雑踏の気配が外から聞こえるが、ああして視覚として感じると、小屋の外と中のギャップが大きいながらも近いところにあって最後には繋がったという印象が面白かった。
芝居では「メディア」の不幸をさまざまな方向から見せ付けられる。中でも後半の夫を苦しめる為に我が子を殺めるところでは、子供殺しの不幸について女たちによって散々嘆きの言葉が投げかけられる。あまりに痛切に叫ぶもんだから、見ている側であるこちらの内面にも深く楔を打ち込む。そして考えさせられる。自分はどれくらい親を慕っているか、自分に子供ができたらどのくらい慈しんであげられるか、大切な物を犠牲にしてまで果たしたい目的があるか、正気であると信じていても実はもう狂っているのではないかという疑い。何とも重い芝居である。しかし後悔や負に捕らわれてしまうわけではない。いいものを観たという満足感がある。それほど役者たちがいい仕事をしてくれている舞台だった。
一度大竹さんを観たいという友人をつれていったが、この友人も大層満足していた。舞台に完全に飲まれ、カーテンコールの後しばし放心していたらしいが、こちらのため息で目が覚めたとか。普段友人とは元気はバカ芝居を観ることが多いが、これはこれで充実した遊びができたので、2人でご満悦である。友人曰、『大竹さんがテレビとかでぽやーっとしてるのは、舞台とかでエネルギーを使うからか?』。なるほど、そうとも言えるかもな。ただ天然ってのも事実だろうが(笑)。